そういえばこんな記事を書いたっけか。(文章が読みにくいorz)
前に書いていたblogから以下転載。
一応、思考の整理になるかと思ったので。
今でも大体同じような判例の勉強方法をとってます。
今の方が若干読み方は深いと思うけど。
既修の一部の人も結局同じような方法をとっているらしい。
まぁ効率追求したら同じような勉強方法になるでしょうね。
それにしても、昔の文章は読みにくい(T_T)
若干編集してみました。
□規範だけを覚える
判例を覚える作業ってのは法律学の中でかなり大事なものであるにもかかわらず、
どういう風に覚えるべきかって言うのがあまり議論されていない。
そのため、学生の中でも判例学習には千差万別があるみたいです。
かくいう僕も判例の覚え方にはかなり苦労してきました。
最初は、判例の規範を特に重点的にメモっていました。
論文用に論証に使えるようにってことで。
それに加えて理由付けも書き足して行きました。
ところがどっこい、
覚えられない(汗)
とにかく判例の量が膨大で、上のような方法をとっていたらとてもじゃないけど、
他の勉強のために使う頭がなくなるという状態なのでした。
この方法、ただ各論点について規範と理由付けを覚えていくのみなので、
全く頭に定着しない
ということが分かりました。
まぁ暗記だから何べんも何べんも判例をまわさなければいけないわけで、
そうなると?相当の作業量と?根気が必要になると。そんな根気強く暗記を続けることなんかできるわけがないことだけはわかっていたのでw
この方法はすぐに止めました。
ただし
この方法をとったことで唯一良かったのは
いかに「とっかかり」を判例学習の中で作っていくか、
ということが膨大な判例を消化する上では一番大事だということが分かったことでした。
もっとも
「とっかかり」を作る作業自体に時間が取られると、他の作業に回す時間がなくなるので
「とっかかり」を作る時間をどれだけ最小限にとどめることができるのかも重視しました。
□事案で覚える
そこで、
次に取った判例学習の方法は
弁護士先生の「事案で論点を覚える」という言葉を聞いて、
一々事案を整理していき、自分の頭の中で印象付けることにしました。
ある論点が問題になると、事案を思い出し、
そして、その事案の中で出す判例の結論で不当な結論はあまりないので、
その事案の中での妥当な結論が分かれば判例の結論・理由付けも思い出すのではないかと思ったからです。
要は、論点⇒事案⇒結論・理由付けという風に芋づる式での記憶喚起を狙ったわけです。
しっかし、
この方法も思ったように効果を挙げないことが判明しました(泣)
敗因は、簡単なことですが、
事案を覚えることによる記憶量が判例の結論・理由付けを覚えないことによる効果よりも大きく、結果として記憶量が前の方法よりも増えたから
です。
なんてこったい、これこそ灯台もと暮らし。
早速、次の方法の考案にとりかかりました。
□判例を、「覚える」のか?
まず、今までの方法を抜本的に反省することから始めました。
なんとなく上の2つの方法をとりながらもある種の違和感を感じていました。
その違和感の原因は、
○実務家の多くの先生は判例を覚える上で、以上のような方法はとっていない、
という事実
そして、
○むしろ、バランス感覚(法律その他の知識や価値観)から判例の結論・理由付けを導いている、
という事実
この際、この違和感を信じてみようと思い、
今までの方法を大転換しようと思いました。
そして、
今までの方法とは、基本的に「覚える」ことを基盤に置いた方法でしたが、
それを変える。
つまり
膨大な判例を「覚える」ためには覚えるのではなく
「理解する」ことで消化・定着させる
ということです。
□「理解する」とは?
そこで「理解する」方法をとるにあたって
自分なりに「理解する」ことの具体的内容を考えてみました。
まず、(1)結論が妥当かどうか考える
そして、(2)自分の結論を導くためにはどのような文言解釈をすべか、自分の法解釈と違うのならば、どのような解釈をしたのかを考える
さらに、(3)判例が自分の思う結論と違う場合にはなぜ判例がそのような考えをとったのか、その結論を導くためにどのような文言解釈をしたのかを理解する
以上が僕が考えた判例を「理解する」ことのプロセスです。
これを少し説明すると、
(1) 仮に自分が出した結論が判例と合致していれば
この判例は「覚える必要がありません」。
覚えなくとも、自分で考えれば必然的に導き出せるからです。
ただし
これは法的な意味のみの結論ではありません。
もう少し大きな枠組みでの結論で、
法的に、社会的に、文化的にみて妥当な結論のことを言います。
判例もそのようなことを考えて出される判断であるので、ただ法的な結論に拘泥すると裁判所の思考プロセスからずれることになり、
無駄に「覚える」判例が増えることになります。
そして、
(2) そうした大きな枠組みの中で得られた結論を法律の条文に落とし込み、理由付けを考えることになりますが、
ここでも自分が考えた法解釈と判例の法解釈が合致していれば「覚える必要がありません」。
理由は(1)と同じです。
さらに
(3) ここでいう結論も、法的な意味だけでの結論ではありません。
法解釈の裏に隠れている実質的な「思惑」と言ってもいいかもしれません。
この「思惑」を考え、法解釈がどのような考えに立って行われたのかだけを押さえれば、
判例の理由付け自体は「覚える必要がありません」。
このように考えてくると、判例を「理解する」方法をとる上でやることは次の2つのみということになります。
すなわち、
ア)判例学習をする際には、事案を見てどのような結論を導くべきか、法的、社会的、文化的あるいは経済的な枠組みから考える
イ)そのようにして得られた結論と判例の「思惑」が合致していないときには、なぜ判例がそのように考えたのかを考える
という2つです。
□方法論上のメリットその1
この方法をとることによるメリットは、
まず、
自分が自然に導き出せる判例の結論は覚える必要がないことです。
暗記することは誰しもが毛嫌いする作業ですが、
僕は根気がない性格上、このメリットがかなり大きいと思います。
次に、
自分の結論とそぐわない判例は、その判例の「思惑」をとっかかりにして覚えることができるということです。
いやな思い出は忘れにくいというか、いじめっ子の顔は忘れないというか、
とにかくそれに近いもので、自分に気持ち悪いと思うものほど忘れないという人間の心理を利用することができます。
これらは作業を一気に減らすことができるというメリットですが、
その他にも大きなメリットがあると思います。
これについては時間があれば次回でも書きたいと思います。
□方法論上のメリットその2
話は、判例の「思惑」を念頭に覚えるべき判例とそうでない判例を区別していくことの勉強上のメリットが暗記作業の省略以外にあるか、
という点で終わっていたと思います。
その後、「それ以外にある」と続けたかったわけですが、これは共感を得にくい話かもしれません。
僕は、判例の結論の裏にある「思惑」をとっかりりにして判例の立場を理解することに重点を置いています。
これは結論を導く解釈の道筋の方はあまり重視していない方法をとっているわけです。
しかし、これに対置する方法として、これとは逆に解釈の道筋を仔細に検討する方法もありえます。
にもかかわらず、あえてこのような方法を僕はとっていません。
それは、そのような方法をとると判例を絶対視してしまうあまり自分の解釈の方法が硬直的なものになり、自分の頭で道筋を考えることができなくなってしまうからです。
法解釈学なのに解釈を軽視するのは矛盾してんじゃないの?
という批判は十分ありえると思いますが、法解釈学も単なる理論を追求する学問ではなく、
現実に通用する実学でなければならず、
常に妥当な結論を導くために解釈が構築されなければなりません。
だから、
まず結論ありきで、その結論を導けるものであれば何だっていい。
実は解釈学と言いながらも結論の妥当性が解釈の良し悪しの9割程度を決めるものだと僕は思っています。
刑法における相当因果関係と同じで、ありえないものでなければ大丈夫。
そうすると、
妥当な結論を得るための解釈としてどのようなものがいいのか、という視点から出発することができるので、
仮に判例が摩訶不思議な解釈方法をとっていたとしても、
それは一つの解釈の方法として「ふーん、こういう解釈もありなのか」という風に寛容に受け止めることができる。
いわゆる判例の立場の相対化というやつです。
学習効率の観点からいえば、無駄に立ち止まることはなくなるでしょう。
これに対して、
判例の辿った道筋を仔細に検討しようとすると、
どうしても解釈のところどころの納得できない部分でいちいち立ち止まってしまうことになります。
この方法をとる人の基本的な考えは、「判例の考えは絶対だ」というものです。
しかし、
そうすると、判例の迷路から永遠に抜け出せない。
判例を絶対視するがゆえに絶対的な判例が自分の考えを養う道を阻むことになります。
以上のように、
判例学習における(省エネ的な)判例の捉え方が結果的に勉強をする上で重要なところにつながっていることが分かるわけですが、
どのように勉強するのかということは結局法解釈学の本質をどのように考えるか、ということと密接に繋がっているのではないか
と僕は個人的に思っています。
□法解釈学の本質
つまり、
?法解釈は妥当な結論を導くための道具にすぎず、
それ以上ではない
?法解釈理論に拘泥した考え方は妥当な結論を導く上で有害なものにさえなりうる
さらに誤解をおそれずに言えば、
?妥当な結論を導くことができるのであれば最低限のものはともかく、
それ以上の理論的整合性は不要である
というようなことが今のところ到達した僕なりの法解釈学に対する態度で、
先の判例学習の方法も判例学説に対する見方も、実はこれらの考え方に立脚しています。
したがって
勉強している以上、自分の勉強の対象が何か考えることはごくごく当たり前なことですが、
こと法解釈学の勉強をする上ではこのような態度決定は避けては通れない問題であること
は判例学習の方法の組み立て方等をみてもらって理解してもらえたかと思います(えらそうですが)。
ただ、
特に?のような意見は法解釈「理論」の構築を担う法科大学院の学生としては
やや挑戦的なものかもしれませんw
しかし、
理論も結局は条文を解釈する上で役立つものでなければ意味のあるものとはいえず、
それをわきまえない理論は解釈にとって有害なものとなりうる
こともある一面を捉えた事実です。
特に、日々新たな解釈の方法を学びつつ、
法解釈に対する態度を養っている発展途上の僕らにとって
その影響は先生方が思っている以上に大きいということを先生方自身が意識して欲しいと思います。