3000人合格時代はどんな時代か?
この頃、弁護士会が法曹人口拡大について反対決議を次々と出している模様。中部弁護士連合会、中国弁護士連合会などなど、その後もこの余波は県単位での弁護士会にも波及して、反対決議がさらに出てきそう。
おそらく一般の方からすれば、いったん年の司法試験合格者を3000人まで増員すると決定したのに、なぜひっくり返そうとするのか、意味が分からないのではないだろうか?
じゃあなぜ3000人という人数設定をしたのか?という単純な疑問がわく。それを含めて、今、法曹資格者をめぐる増員問題がどのような状況にあるのか、状況把握ができない、というのが現状ではないだろうか?
法曹資格者がどれぐらいいるか、特に弁護士が国民のすぐ側にどれぐらいいるのか、ということは国民の生活に密接に関わる重要な問題だ。特に、法化社会と言われるようになったこのごろではこの問題を腰をすえて議論する必要があるのではないかと思える。
この問題に対して、増員に反対する立場がよって立つ根拠は、「増員すれば必然的に質が落ちる」ということである。
確かに論理的にこれは言える。合格者の人数を予め多めに設定すれば、合格水準に達していない者を合格させなければならないし、そもそも10年前までは500人だった合格者を6倍に増やすのだから抽象的に考えても落ちないわけはない。
しかし、ここで考えなければいけないのは、3000人増員問題が日本の社会にとってどのような意味をもつのか、ということである。
仮に質が少し落ちたとしても、それでよしとするのが政府の決定だとすればむしろ反対派がいうことは政府案に織り込み済みではないか。何を今更ということになる。そうでなく、質を落とさないために法科大学院を創設しているにもかかわらず、質が予想以上に落ちそうだとすればそれはどの程度落ちそうなのか。
反対派の唱える反対論はあまりにも問題を単純化しすぎており、しかも反対意見の持つ意味すらよく吟味されていない。
何も反対意見が出ること自体が悪いわけではない。しかし、それなりに意味をもつ、建設的な反対意見を持ち出してさらに議論をかき回して欲しい。
議論をより立体的に展開する必要がある。
あ そもそもなぜ法曹資格者の質が落ちてはいけないのか?
司法試験によって、ある程度合格者の質は確保できる、問題は以前の質が確保できないことである。
○しかし、それは必要なのかどうか。
○必要だとしてなぜ必要なのか。
よく、質が落ちると国民の利益を害する弁護過誤が起きるのではないか、とする意見も挙げられる。
○しかし、それは本当に法的技術の質の低下によるものなのであろうか。
○むしろ、そうではないのではないか。他の部分、すなわち、法曹としての倫理観が欠如していることによるものではないか。
○それとも質が落ちれば倫理観も欠如しやすいのか。
そもそも、弁護過誤が頻繁に起きる、という考えは前提として依頼者は法律のことについて全く無知で、弁護士が何をしようと分からないという依頼者のもであるがあるように思える。
○しかし、今からこのような依頼者を想定することは正しいのか。
○法律教育を国民的にしていくべきでないのか。
○少なくとも、弁護士の良し悪しを判断できる程度に弁護士の情報を社会に提供できないか。
○依頼者がそれを判断したときに、即座に対応できる法律サービス体制を社会全体で構築できないか。
い 弁護士がビジネスライクになって犯罪に走るのか?
これも単純に額面どおり受け取るべきでないだろう。
これは弁護士の食い扶持が減ってしまうことを仮定してのものだと思われる。
○では、本当に弁護士の奪い合うパイはこれから増えないのだろうか。
○仮にその想定が正しくても、本当に犯罪に走る傾向が多くなるのであろうか。
○それを未然に防ぐ策はないか。
○仮にそのような犯罪が増加したとしても結果的に社会はよくなっていくのではないか。
○そのような社会を前提にしてもなお、弁護士の犯罪は許されないものであろうか。
う 法曹資格者の増員で何が起き、減員で何が起きないか?どのぐらいの増員でそれが起きるか?
法曹資格者の増員で確実に依頼人に対するサービスの向上が生じる。資本主義経済の定めである。逆に減員ではこの動きが鈍化する。
○増員の効果をもってしても、上記に挙げたデメリットを克服できないであろうか。
以上のあ〜う、のような疑問を提示してみたが、この問題に対する切り口はいくらでもある。それはどのような社会を想定するかにかかっていると思う。
どのような社会を想定するか、それさえも述べずにいる反対意見は無用に議論を混乱させているようにも思える。
少なくとも、反対意見が「弁護士の質が落ちれば社会に迷惑をかける」と社会の行く末を慮って、発言するのであれば、少なくとも社会の中で十分な議論ができるように議論の素材を提供すべきではないだろうか。